2009年7月16日木曜日

3. コーイチローにネムリが言い出した条件

■あらすじ
 ネムリが、コーイチローに言い出した案件を引き受けるために、コーイチローも条件を出す。ネムリとコーイチローは、その条件についてあれこれと話す。

--------------------
 コーイチローにしてみれば、当然、ネムリの言っていることは、はいそうですか、と受け入れられる類のものではなかった。
 しかし、ネムリは切り札を持っていた。
「人間を動かすには、アメとムチがいるってね。アメはこうして、しばらくお前様の従僕を黙らせてやるよ。もう、お前様も気が付いていると思うが、あー、ワシにはお前様の活動を完全に掌握することは出来ない。そんなこととをしたら、お前様の従僕にばれてしまう可能性が広がってしまうからなぁ。その分、お前様は、自分の好きなように振る舞えるというわけだ。悪くない取引だろ」
「ああ、少し、クアリスを黙らせてほしいというときはある。いや、黙らせるというか、常にこの自分について回るようなまとわりつくような感覚をどうにかしてほしいという気持ちはある。だから、取引に乗るかと言われると乗るしかないだろうね。ただ、そうなると、ムチはなんだい?」
 ネムリは、にやりと笑った。
 コーイチローは、この笑い方は、かなり高度だなと思った。そもそも、猫の顔は骨格が、人間と同じではないため、完全に表情を伝えることができない。しかし、この映像は、かなりレベルの高い脳のシミュレートを行っているように見える。人間は表情から、数多くのことを感じ取る。脳のシミュレートのレベルと、表情の作り方とが連動することが成功すると、極めて人間くさい顔になる。コーイチローはさっきから気になっていたのだが、クアリスよりも、ネムリは、より人間くさい顔をする。もちろん、クアリスの表情も完璧なのだが、ネムリはさらに完璧な人の表情を感じさせる顔をする。
「だいたい、わかっているんじゃないのかね。お前様にとっては、本質的にはどうもどうでもいいと感じられるように見えるものだけどね」
「僕の命か……。人工心臓のシステムまでハックしたと言いたい訳だね……」
「そう、心臓を止めてしまうのは比較的たやすい。そのプログラムを動かしている制御システムに変な数値を送ればいいだけだからねえ」
 と、ネムリは、じっと上目遣いに、探るようにコーイチローの表情を見つめている。コーイチローは、ネムリがどうして、そこまで自分に表情を見せるのだろうかが、不思議でならなかった。ただ、コーイチローには、これがムチであれば、少しつまらないと思える。
「試してみるといいぜ……。本当に止められるかどうか。止めようと心臓におかしな命令を送って、挙動がおかしくなれば、さすがにクアリスは気が付くだろう。いや、彼がそもそも存在しているビヨンドサーバのメインシステムが、その挙動のおかしさに気が付くだろう」
「そこまでおっしゃるならば、試してみましょうかね……。しかし……、アレですな。さすがに、気が付きましたとも。お前様は、心臓を止めることをムチと思ってはいられない感じですな。アメと思っていらっしゃるようにしか感じられませんな」
「本質的な問題かもしれない……。僕はどこかで死を望んでいるのかもしれない」
「世界史の授業中に突然亡くなれば、さぞ甘美でしょうなあ。お前様があまり好まれていない、今講義されている教師への恨みの一言でも、書いておいたらどうだい」
「こんな退屈な授業は、退屈すぎるので、本当に死んでしまいましたってか……」
 ネムリは目線をはずして、前足で頭をかいて、ぶるるんと体を振るわせた。
「そういうお前様だからこそ、ワシなんかと一緒に仕事ができるとは思わないかい。ワシは、あー、これでも、それなりにいろんな人間を見てきたつもりだが、お前様はやっぱり、ちょっと変わっておるなあ。ワシはできれば自発的にワシと仕事を楽しんでもらえる相手がほしいのだよ」
「……止めるのは、できるけど、1回しかできないと言った口ぶりだねえ。適度にムチを与えられるという感じではないねえ。まだ、こそこそとかくしていることがあるようにしか感じられないが……。そもそも、所属している軍隊がどこのものなのかもわからないじゃないか。ただ、わかった。こっちも退屈していたところだ。話に乗ってみようじゃないか」
「ほう、受けてくれるか。そうだな、もう少し実績を上げたら、ノイズで隠した部分は教えてやるよ」
 露骨にはち切れんばかりに嬉しそうな顔をするネムリに、何となくその辺にいるステレオタイプの中年の姿を連想させるような気分がした。きれいに表示されている、ピンク色に輝く毛も、台無しに感じられた。人間くさいと言えば人間くさいが、人間くさすぎるとも言えた。
「ただ、条件がある。どうやったら、クアリスを止められるんだ。その方法を具体的に教えてほしい。何時いかなる時でも、クアリスを一時的に動作を今と同じような状態に止めてほしい」
「……何のために使うのかと、いうのは聞くべきではなさそうだなあ」
「ああ、今は話したくない」
「うーむ、それではこうしよう。指定した任務に使う本の中にしおりを挟んでおく。それに書いておく。ただし、いざというときまで決して見てはいけない。注意も払ってはいけない。お前様が、特定のオブジェクトに関心を持っていることが、クアリスに悟られたら終わりだからだ。できれば、本にそのまま残しておくことが望ましいが、それは任せる……。ただ繰り返すが、できるだけ注意を向けるな。それは、任務も同じだ」
「わかってる。ネムリの仕事を依頼の意味は、僕にはちっともわからない。だけど、その仕事は、クアリスに把握されたら終わり。そうだな」
「その通りだ、物わかりがいい相手は好きだなあ。おっと、そろそろ授業が終わるぜ、長話が過ぎた。お前様は、うとうととしていた、いいな……」
 というと、「にゃあ」と猫は一鳴きして、机からぴょんと跳びだした。その声は人間が声音を似せて鳴いているように聞こえなくもなかった。そして、ぴょんぴょんと、隣の机から机へと優雅に移動して、最後には窓から飛び出していった。コーイチローは、コンピュータ映像なんだから、そのまま消せばいいだろうにと思う。ただ、ミューズシステムの連中なりにも流儀があるらしく、人間の視界から、不自然に見えないように消えることができるミューズの方が、洗練されているという価値基準が存在しているようだ。案外とおしゃれなのかもしれない。
 コーイチローは、自分の身体に沸きのぼってくる、ふわっとした眠くなるような感覚を覚えた。実際、あまり動くことなく、まわりを気にすることなく、とはいえ、誰にも聞き取れないように、小さな声で、ぶつぶつとつぶやくように話していたわけで、眠そうな気分になるのも当然だと思えた。
 授業は、ネットノートを見ると、「海のシルクロードの意義とは」という設問に移動していた。相変わらず数百年という人の営みを簡単に片づけるねえと、何となく反感を持ちながら読んだ。そこでチャイムが鳴った。

 コーイチローの身体は、かなりナノボットを通じて、クアリスにモニタリングされているが、脳細胞の一つ一つの働きまで押さえられているわけではない。まだ、脳の毛細血管で構成される神経細胞といったところにまではナノボットは入ってはいけない。ただし、そうは言っても、脳内の電圧の変化は、一定量検出することができるため、頭の外側から何かのセンサーを使って脳波を検出していた時代よりは格段に正確なデータを取得できるようになっている。
 それでも、人間の脳の中で、次々に起こる脳細胞の発火によって何が起きているのかを正確に予測することは難しい。人間の脳は、休んでいると思われるときでさえ、理解できないような発火現象を引き起こすからだ。しかし、技術の進歩としては、楽観的に考えられており、毛細血管にまで入り込めるようなナノボットの登場も時間の問題だろうと思われていた。
 コーイチローは、そうなると、さらに正確にミューズシステムが、完璧に人間の考えていることを予測するようになると考えていた。
 ただ、それは今ではない。
 クアリスは必死に自分の手駒のナノボットを利用して、完璧ではない情報を元に、コーイチローが常日頃考えていることをモニタリングし、解釈し、完璧な将来予想をしようとしていることはわかっている。
 その裏をかく、という気分は悪いものではない。しかし、多分、一度しか通用しない。
 コーイチローは、ネムリの言うことなど守る気はさらさらなかった。その一度限りの機会を最初から使うつもりでいた。

 盾野スミレは、クラスの中でも控え目な女子だ。コーイチローの席の後ろの窓際に席があった。、ガリガリといっていいほど線が細く、髪をとめていた。いつも、どこか女子の中で一人浮いているようなタイプで、あまり人と話さないように見えた。彼女自身が人とのつき合いを嫌っているのかもしれない。
 コーイチロー自身はほとんど話したことはなかった。
 ただ、新学期が始まったときに、彼女を始めて「見た」といえるのは、ゴールデンウィーク頃に、いつも通りに体育時間中に保健室からあまりの退屈さから教室に帰ってきたコーイチローと目があったときだ。授業の終わりを告げるチャイムはまだ鳴っていなかったが、教室に入ると、彼女の席のところに、三年生と思われる男子がいた。
 学生服から赤いTシャツが見える不良じみた格好の男子だった。コーイチローはきびすを返して、トイレに向かった。彼女が、何をしていたのかには、まったく興味はなかった。ただ、驚いたために、クアリスが心臓の動悸が変化したことに注意を払っている感じが伝わってきたのを覚えている。
 そのときの映像を呼び出せば、何をしていたのかを正確に理解することは出来るのかもしれない。ただ、もちろん、そう思うのは想像の中だけだ。そんな映像を引っ張り出すように、指示を出せば、クアリスが不信に思うことは明白だからだ。
 とはいえ、盾野には、コーイチローには理解できない何かの秘密があるのだろう。きっと「第三次世界大戦」に関係するような……と、そこまで考えて、少しおかしくなった。こんな千葉県の高校生一人が、どうそんなものに関係すると言うのだと。

0 件のコメント:

コメントを投稿