2009年8月18日火曜日

はしがき

COMITIA89 に出展用の書籍の「はしがき」部分です。
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はしがき

 この本を手にとってくださって、本当にありがとうございます。
 この小説は、二〇三〇年台始めの一人の高校生をテーマにした「未来予測小説」です。
 実際に存在する発明家・未来学者のレイ・カーツワイルという人物が行っている未来予測を下敷きにして、物語を描いています。物語を始める前に、少しだけ、この小説を書こうと考えた経緯をお話させてください。

 私は、毎年春に米サンフランシスコで開催される、世界最大のゲーム開発者向けカンファレンス「ゲーム開発者会議(GDC)」に二〇〇一年から、参加しています。五日間の期間中は、全体で五百以上の講演の取材に駆け回ったり、合間を縫って、ミーティングとパーティに参加したりと、息つく暇もないほど、てんてこ舞いの忙しさになります。
 その九年間に、心に強く残っている講演はいくつもあって、それが自分自身の考え方を育てていく、重要な役割を担ってきています。

 その中にとりわけ忘れられない講演があります。二〇〇八年のGDCの基調講演で行われたレイ・カーツワイルの講演「ゲームの次の二十年」というものでした。実際には、ほとんどゲームに関係ない講演でしたが、この講演は私に心から揺さぶられました。科学技術に対する私の考え方や態度を根本から考え直す必要性を迫るものだったからです。
 帰国後、カーツワイルが、二〇〇五年に出版した『ポスト・ヒューマン誕生』(NHK出版)という彼のアイデアを大量にメモ書きをまとめたような分厚い書籍を、早速読みました。
 カーツワイルは、コンピュータとそれに関連するナノテクノロジーなどのすべての技術の爆発的な性能向上は、今後も継続し続けるという「収穫加速の法則」というものを提唱しています。彼の論理は、マイクロプロセッサのクロックスピードや、そのコスト、ウェブの数など数値化可能なものを時系列に並べることで、将来を予測してみせるというおもしろい手法で組み立てられており、指数関数的(なんでも二乗のペース)で、世界中の技術は急成長を続けていることを論証するものでした。
 時代が後になるほど、何かを生み出すために必要とするエネルギーがどんどん低下する、つまり、どんどん収穫は増すという考え方をしており、説得力のある議論を展開しています。
 そして、将来について、コンピュータの演算性能は、二〇三〇年頃には人間の脳の計算能力を超えると予測しています。しかし、それだけでは、まだまだ文明のあり方、人間のあり方自体を変えてしまうような、大きな影響にまでは至らない、とも書いています。
 本質的な変化が到来するのは、カーツワイルの予測では、二〇四五年頃です。人間の脳を超えた演算能力を持つような高い性能を持ったコンピュータが一〇万円前後になる時代。一般家庭のどこにでも、そういう技術がありふれるようになる普及期に至るまでには、それが起きないという予測をしています。
 そして、人間とコンピュータの能力が重なっていくことで、生物としての性質さえも変わって、新しい文明の時代へと変わる。カーツワイルは、この変化の時を「技術的特異点」と呼んでいます。

 私は、この議論から刺激を受け続け、その後も、調べました。
 カーツワイルをはじめとする未来学者と称する人たちが、欧米圏には何人も存在していることを知りました。そして、カーツワイルは、人間が技術を確実に制御できるという、超楽観的とでもいう立場を取っていることに対する批判があるということも知りました。
 私の関心は、次に、実際に「技術的特異点」に何が起きるのかを知りたいという気持ちに変わっていきました。カーツワイルの言う技術的な未来予測はおもしろいけど、その変化は、人間の心にどのような変化をもたらすのかまでは、具体的には教えてはくれません。いえ、わからないという方が正確なのでしょう。
 例えば、一九九九年にスタートした「iモード」を基準とするなら、携帯電話が一般に普及するようになってから、わずか一〇年しか経っていません。しかし、もう私たちは、携帯電話がない時代を思い出すことが難しくなりつつあります。これは、技術によって引き起こされた意識の変化のわかりやすい例です。同じような例は、テレビや、パソコン、インターネット、最近では、「mixi」や「ニコニコ動画」、「iPhone」といったものがあります。存在しなかった時代を知っているにもかかわらず、もはや、そういうものがなかった時代を思い出せなくなりつつあるということに驚かされることがあります。

 私は、この十年あまり、ジャーナリストとして、そもそも、ゲーム系のコラムや記事など、ノンフィクション、つまり、現実に存在しているものを追いかけることを仕事の一つとしてきました。私の主分野は、ゲームを中心としていますが、それらのものは、それを開発する人間、遊ぶ人間がいて始めて成り立つものです。だから、ゲーム以上にその技術のまわりにいる人の方に、私は関心を抱いているようです。インタビューをして、様々な人生を抱えている人の話を伺うのはいつも楽しいことです。
 一方で、日本での私が行う講演の中では、カーツワイルの理論を引用する形で紹介していくようなこともよく行うようになりました。講演もまた、ノンフィクションに近いような手法で構成することができます。しかし、何か物足りなさを感じるようになりました。
 ノンフィクションは、今起きていることか、過去に起きたことを表現する方法としては非常に優れています。しかし、そういう方法で「技術的特異点」に挑んでみても、骨は伝わっても、血肉が足りていないような気がするようになったのです。

 私は、いつしか、コンピュータの方が人間よりも高い知性を持ち始めるような時代がやってくるときに、人間はどのように自らのアイデンティティを構成していくのだろうか、ということを、内省的に考えている自分を見つけるようになりました。
 「攻殻機動隊」など、いくつもの物語が、このテーマに挑んでいますが、「電脳化」と言われるものとは違った方向に、すでに技術は進み始めているようにも思えます。カーツワイルの予測は、すでに九〇年代から〇〇年代初頭に予測されたものとは、いまの時点でもかなり違ってきており、パラダイムを新しいものに、組み替える必要がるのではという気持ちが強くなっていったのです。
 新しい時代に直面した人類には、いまの携帯電話を使う我々と同じく、変わっていく部分と、変わっていかない部分がある。それを見極めることは出来ないだろうかと。
 いろいろ悩んだ結果、一年後の今年一月頃に、表現方法として、伝統的なSF的な「物語」という手法を採ろうと決めました。人に語らせなければ、結局は、心の内はわからない。だけど、未来の心理をいま語れるような便利な人はいない。だったら、自分で架空のキャラクターを作って、彼らを通じて未来を考えていくしかないだろうと。
 この小説は、発表するあてもなく、そういう経緯で書き始めた物語です。

 この物語は、「技術的特異点」に迫ろうとしている時代の人間の心理変化をテーマにしています。そして、二〇三〇年台に、いち早く、そこに巻き込まれていかなければならなかった一人の高校生を通じて、その時代の人間の悩みを描こうとしています。
 独立した、短編を書き連ねる形式で、書こうとしていますが、結局は、それなりに、つながってしまう関係になってしまいました。書き始めてから半年あまりで、原稿用紙四〇〇字詰めで、六〇〇枚ぐらい書いていますが、全体の整合性は取れていないため、そこから切り出してブラッシュアップした短編五本、一三〇枚程度を収録しています。
 未来を考えるということは、客観的に今の自分たちを見つめ直すことに他なりません。どうか、読み終えた後に、読んでくださったあなたの心に、何かが残っていることを願ってやみません。

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