2009年7月16日木曜日

3. コーイチローにネムリが言い出した条件

■あらすじ
 ネムリが、コーイチローに言い出した案件を引き受けるために、コーイチローも条件を出す。ネムリとコーイチローは、その条件についてあれこれと話す。

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 コーイチローにしてみれば、当然、ネムリの言っていることは、はいそうですか、と受け入れられる類のものではなかった。
 しかし、ネムリは切り札を持っていた。
「人間を動かすには、アメとムチがいるってね。アメはこうして、しばらくお前様の従僕を黙らせてやるよ。もう、お前様も気が付いていると思うが、あー、ワシにはお前様の活動を完全に掌握することは出来ない。そんなこととをしたら、お前様の従僕にばれてしまう可能性が広がってしまうからなぁ。その分、お前様は、自分の好きなように振る舞えるというわけだ。悪くない取引だろ」
「ああ、少し、クアリスを黙らせてほしいというときはある。いや、黙らせるというか、常にこの自分について回るようなまとわりつくような感覚をどうにかしてほしいという気持ちはある。だから、取引に乗るかと言われると乗るしかないだろうね。ただ、そうなると、ムチはなんだい?」
 ネムリは、にやりと笑った。
 コーイチローは、この笑い方は、かなり高度だなと思った。そもそも、猫の顔は骨格が、人間と同じではないため、完全に表情を伝えることができない。しかし、この映像は、かなりレベルの高い脳のシミュレートを行っているように見える。人間は表情から、数多くのことを感じ取る。脳のシミュレートのレベルと、表情の作り方とが連動することが成功すると、極めて人間くさい顔になる。コーイチローはさっきから気になっていたのだが、クアリスよりも、ネムリは、より人間くさい顔をする。もちろん、クアリスの表情も完璧なのだが、ネムリはさらに完璧な人の表情を感じさせる顔をする。
「だいたい、わかっているんじゃないのかね。お前様にとっては、本質的にはどうもどうでもいいと感じられるように見えるものだけどね」
「僕の命か……。人工心臓のシステムまでハックしたと言いたい訳だね……」
「そう、心臓を止めてしまうのは比較的たやすい。そのプログラムを動かしている制御システムに変な数値を送ればいいだけだからねえ」
 と、ネムリは、じっと上目遣いに、探るようにコーイチローの表情を見つめている。コーイチローは、ネムリがどうして、そこまで自分に表情を見せるのだろうかが、不思議でならなかった。ただ、コーイチローには、これがムチであれば、少しつまらないと思える。
「試してみるといいぜ……。本当に止められるかどうか。止めようと心臓におかしな命令を送って、挙動がおかしくなれば、さすがにクアリスは気が付くだろう。いや、彼がそもそも存在しているビヨンドサーバのメインシステムが、その挙動のおかしさに気が付くだろう」
「そこまでおっしゃるならば、試してみましょうかね……。しかし……、アレですな。さすがに、気が付きましたとも。お前様は、心臓を止めることをムチと思ってはいられない感じですな。アメと思っていらっしゃるようにしか感じられませんな」
「本質的な問題かもしれない……。僕はどこかで死を望んでいるのかもしれない」
「世界史の授業中に突然亡くなれば、さぞ甘美でしょうなあ。お前様があまり好まれていない、今講義されている教師への恨みの一言でも、書いておいたらどうだい」
「こんな退屈な授業は、退屈すぎるので、本当に死んでしまいましたってか……」
 ネムリは目線をはずして、前足で頭をかいて、ぶるるんと体を振るわせた。
「そういうお前様だからこそ、ワシなんかと一緒に仕事ができるとは思わないかい。ワシは、あー、これでも、それなりにいろんな人間を見てきたつもりだが、お前様はやっぱり、ちょっと変わっておるなあ。ワシはできれば自発的にワシと仕事を楽しんでもらえる相手がほしいのだよ」
「……止めるのは、できるけど、1回しかできないと言った口ぶりだねえ。適度にムチを与えられるという感じではないねえ。まだ、こそこそとかくしていることがあるようにしか感じられないが……。そもそも、所属している軍隊がどこのものなのかもわからないじゃないか。ただ、わかった。こっちも退屈していたところだ。話に乗ってみようじゃないか」
「ほう、受けてくれるか。そうだな、もう少し実績を上げたら、ノイズで隠した部分は教えてやるよ」
 露骨にはち切れんばかりに嬉しそうな顔をするネムリに、何となくその辺にいるステレオタイプの中年の姿を連想させるような気分がした。きれいに表示されている、ピンク色に輝く毛も、台無しに感じられた。人間くさいと言えば人間くさいが、人間くさすぎるとも言えた。
「ただ、条件がある。どうやったら、クアリスを止められるんだ。その方法を具体的に教えてほしい。何時いかなる時でも、クアリスを一時的に動作を今と同じような状態に止めてほしい」
「……何のために使うのかと、いうのは聞くべきではなさそうだなあ」
「ああ、今は話したくない」
「うーむ、それではこうしよう。指定した任務に使う本の中にしおりを挟んでおく。それに書いておく。ただし、いざというときまで決して見てはいけない。注意も払ってはいけない。お前様が、特定のオブジェクトに関心を持っていることが、クアリスに悟られたら終わりだからだ。できれば、本にそのまま残しておくことが望ましいが、それは任せる……。ただ繰り返すが、できるだけ注意を向けるな。それは、任務も同じだ」
「わかってる。ネムリの仕事を依頼の意味は、僕にはちっともわからない。だけど、その仕事は、クアリスに把握されたら終わり。そうだな」
「その通りだ、物わかりがいい相手は好きだなあ。おっと、そろそろ授業が終わるぜ、長話が過ぎた。お前様は、うとうととしていた、いいな……」
 というと、「にゃあ」と猫は一鳴きして、机からぴょんと跳びだした。その声は人間が声音を似せて鳴いているように聞こえなくもなかった。そして、ぴょんぴょんと、隣の机から机へと優雅に移動して、最後には窓から飛び出していった。コーイチローは、コンピュータ映像なんだから、そのまま消せばいいだろうにと思う。ただ、ミューズシステムの連中なりにも流儀があるらしく、人間の視界から、不自然に見えないように消えることができるミューズの方が、洗練されているという価値基準が存在しているようだ。案外とおしゃれなのかもしれない。
 コーイチローは、自分の身体に沸きのぼってくる、ふわっとした眠くなるような感覚を覚えた。実際、あまり動くことなく、まわりを気にすることなく、とはいえ、誰にも聞き取れないように、小さな声で、ぶつぶつとつぶやくように話していたわけで、眠そうな気分になるのも当然だと思えた。
 授業は、ネットノートを見ると、「海のシルクロードの意義とは」という設問に移動していた。相変わらず数百年という人の営みを簡単に片づけるねえと、何となく反感を持ちながら読んだ。そこでチャイムが鳴った。

 コーイチローの身体は、かなりナノボットを通じて、クアリスにモニタリングされているが、脳細胞の一つ一つの働きまで押さえられているわけではない。まだ、脳の毛細血管で構成される神経細胞といったところにまではナノボットは入ってはいけない。ただし、そうは言っても、脳内の電圧の変化は、一定量検出することができるため、頭の外側から何かのセンサーを使って脳波を検出していた時代よりは格段に正確なデータを取得できるようになっている。
 それでも、人間の脳の中で、次々に起こる脳細胞の発火によって何が起きているのかを正確に予測することは難しい。人間の脳は、休んでいると思われるときでさえ、理解できないような発火現象を引き起こすからだ。しかし、技術の進歩としては、楽観的に考えられており、毛細血管にまで入り込めるようなナノボットの登場も時間の問題だろうと思われていた。
 コーイチローは、そうなると、さらに正確にミューズシステムが、完璧に人間の考えていることを予測するようになると考えていた。
 ただ、それは今ではない。
 クアリスは必死に自分の手駒のナノボットを利用して、完璧ではない情報を元に、コーイチローが常日頃考えていることをモニタリングし、解釈し、完璧な将来予想をしようとしていることはわかっている。
 その裏をかく、という気分は悪いものではない。しかし、多分、一度しか通用しない。
 コーイチローは、ネムリの言うことなど守る気はさらさらなかった。その一度限りの機会を最初から使うつもりでいた。

 盾野スミレは、クラスの中でも控え目な女子だ。コーイチローの席の後ろの窓際に席があった。、ガリガリといっていいほど線が細く、髪をとめていた。いつも、どこか女子の中で一人浮いているようなタイプで、あまり人と話さないように見えた。彼女自身が人とのつき合いを嫌っているのかもしれない。
 コーイチロー自身はほとんど話したことはなかった。
 ただ、新学期が始まったときに、彼女を始めて「見た」といえるのは、ゴールデンウィーク頃に、いつも通りに体育時間中に保健室からあまりの退屈さから教室に帰ってきたコーイチローと目があったときだ。授業の終わりを告げるチャイムはまだ鳴っていなかったが、教室に入ると、彼女の席のところに、三年生と思われる男子がいた。
 学生服から赤いTシャツが見える不良じみた格好の男子だった。コーイチローはきびすを返して、トイレに向かった。彼女が、何をしていたのかには、まったく興味はなかった。ただ、驚いたために、クアリスが心臓の動悸が変化したことに注意を払っている感じが伝わってきたのを覚えている。
 そのときの映像を呼び出せば、何をしていたのかを正確に理解することは出来るのかもしれない。ただ、もちろん、そう思うのは想像の中だけだ。そんな映像を引っ張り出すように、指示を出せば、クアリスが不信に思うことは明白だからだ。
 とはいえ、盾野には、コーイチローには理解できない何かの秘密があるのだろう。きっと「第三次世界大戦」に関係するような……と、そこまで考えて、少しおかしくなった。こんな千葉県の高校生一人が、どうそんなものに関係すると言うのだと。

2. コーイチローのところに授業中にシャム猫がやってくる

■あらすじ
 世界史の授業中にぼんやりとしているコーイチローのところにいきなり一匹のシャム猫が現れる。猫はどうも、クアリスと同じミューズシステムのようなのだが、奇妙なことを依頼される。

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 コーイチローにとっては、授業中についうっかりと、どこかに気分が行ってしまうというのはいつものことだった。自分でも、どこか他の連中よりぼんやりとしているという自覚はあった。
 世界史の授業は、あまりおもしろいと感じる授業ではなかった。いや、コーイチローは世界史そのものは好きなのだが、教員の語り口調があまり好きではなかったという感じだ。大学では体育会系だっただろうと思われるベテランの背が高く難いが大きな教員は、いろいろ表を作ったりして、学生が退屈しないように工夫をしているようには感じられていた。机の上の授業用に学生に配布されているネットノートのモニターには、その教員が作成したチャートが表示されている。懇切丁寧に書かれているチャートで、所々が虫食いになっていて、学生が入力するようになっている。試験対策としては、これ以上ない完成度のもので、受験勉強の対策のためだけに世界史を受ける学生にとっては、とても評判がいいものなのだが、コーイチローは今年、この教員の授業を受けるようになって、どうにもこの授業への違和感がつのっている。
(歴史を単純化しすぎているんじゃないのか……)
 と、漠然と思う。ローマ帝国の時代が終わり、シルクロードを通じて行われた交易についてまで授業は進んでいた。もうすぐ期末試験だ。ただ、このチャートを通じて、授業を受けていると、その歴史上に存在していた人たちが、この虫食いの括弧のなかに当てはまるように、結論ありきで生きていたような印象さえする。
 このチャートの中に文字を入力していると、ジュリアス・シーザーは、ローマ帝国を建設するために最初から生まれて来た……ように感じられる。そんなに人間の人生は単純なものなのだろうかという漠然とした不満を感じていたのだ。
 授業中は、もちろん、ネットノートから外部のゲーム系のサイトにアクセスしたりはできないが、それでも、ウィキペディアといった一部の教材として使えるような情報がまとめられているサイトにはアクセスすることができた。なので、コーイチローは、授業は聞かないで、ウィキペディアのリンクからつながる説明文や映像を勝手に見ているのが常だった。とはいえ、コーイチローの中間テストの点はあまり芳しい点とは言えなかった。決められた虫食いルールを覚えるのが嫌で、あまりまじめに勉強しなかったからだ。反抗的な学生と教員の側からもカテゴライズされていたのだろうが、私語をしていなければ、文句を言われることはなかった。
 ただ、そうして熱心に外部のサイトを読んで回っているのが常ではない。コーイチローは、ぼんやりと窓から外を眺めていることも少なくない。すでに季節は夏になっており、丘の上にあるこの高校から眼下に見える町並みに当たる光の色は、ずいぶんとまぶしく感じられるようになってきていた。

 ただ、少しうとうととしてしまったのかもしれない。ふっと気が付くと、目の前に一匹のシャム猫が座っていた。音もなく、コーイチローのネットノートのキーボード部分の上座っていた。ずいぶんと大きなサイズで、毛がふさふさとして、白みがかった毛が少しだけピンク色に染まっていた。そして、コーイチローの顔をのぞき込む用に見ていた。
「あっ……」
 と、コーイチローは一瞬目を疑って、一瞬身体ががのけぞり、そして、あわててまわりの席を見た。他のクラスのヤツは、コーイチローのように慌てている人は誰もいないし、こちらを見ている人もいなかった。
 つまり、これは、コーイチローのコンタクトスクリーンだけに表示されているコンピュータ映像だ。しかし、あまりにコンタクトスクリーンに表示できる映像が鮮明になってしまったために、現実の世界との映像の区別を行うことが難しくなっている。そのため、最近の映像では、必ず、その存在は、最初に画面に表示された時に、緑色にかすかに輝くというルールになっている。
 コーイチローがあわてたのは、このシャム猫が緑色に輝くことがなかったからだ。だから、現実の猫かどうか、区別が付かなくて、コーイチローがあわてたというわけだ。そういう例外的なルールはクアリスが関わっている場合にのみ、適応できる場合がある。クアリスがいたずらをしている可能性があるが、長年のつき合いから、そういう気の効いたことができるタイプのミューズではないことは、知っているつもりだった。
 猫はゆっくりと、足の先をなめている。そして、おもむろに、緑色に少し光った。やはり、コンピュータ映像だ。しかし、これほどのタイミングのズレが起きたのははじめての体験で、コーイチローには理解できず、少し驚いた。
 猫は片目をつぶりながら、細いパイプの中から絞り出すような、どら声で言った。
「やっと、掌握できたようだねえ……。いや、失敬。少し驚かせてしまったかね」
 と、丁重そうだが、少しばかりずうずうしそうな雰囲気を漂わせているネコは言った。
 一応オスらしい。この顔から、この声は出るはずがないだろうと、少しばかり苦笑しつつ、コーイチローは聞いた。
「クアリス……では、なさそうだねえ……」
 猫は、少しばかりにやりと笑っているように見えた。
「見えているようですなあ。……ああ、ワシもお前様の眼球の座標を完全に把握できた。こちらの表情を、もう少しはっきり伝えられそうだ。
 猫は身体を震わせて、背伸びをした。
「さすがに早くからミューズを触っているだけあって、飲み込みが良いようだねぇ。お前様が、噂のコーイチロー君か。私はネコの……そうだな、『ネムリ』とでも名乗っておこうか……」
「君は、人間かい、それとも、ビヨンドかい? 見た様子だと、ミューズシステムの利用者だと言うことはわかったけど」
「ふふん、まあ、その質問にはインターネット越しだと、あまり意味がないってことはわかっておられるよね。ワシの声が、ビヨンドサーバが合成した音声か、もしくは、誰かの声であるのかを区別して正確に判断することは、なかなか簡単ではない。私が、単に人間の声を中継しているにすぎないしても、コンピュータではないと証明は難しい。結局は、お前様の従僕殿なりのアプリを使って、厳密な判定を行わないといけないだろうね」
「じゃあ、ビヨンドだ。こんな説明じみた、ごちゃごちゃしたことをわざわざ言う人間はそんなにいない」
 ネコは少しばかり驚いた顔をした。相変わらず片目をつぶっている。それが愛嬌を感じさせる表情になることを、よくわかっているようだ。
「はははは、なるほど、おもしろい視点だ。まあ、どっちでも本質的にはよろしいこった。ああ、わかっているとも。そもそも、お前様が聞きたいのは、お前様の従僕殿はどこに行ったのかということだよね」
「クアリスに、こんなにお茶目な機能が付いていただろうかと、不思議に思ってしまった。要するに、クアリスに対して、ハッキングをしたという理解でいいのかな」
「まあね。有り体に言うならばね。実際、しばらく前から、お前様を監視させてもらっていてね。もちろん、従僕殿には、お前様が引き続き、ぼんやりとしているように見えるダミーデータをほうりこんである。多分、気が付いていないはずだ。ばれたら終わりだけど、ばれるまでは、とりあえず、こうして姿を表示することができる。もちろん、生命維持にはまったく影響はない。ワシが掌握したのは一部の機能だけだ。まあ、やろうと思えばもっと広げられるがな」
「こんなに、簡単にクアリスがハッキングされてしまうとは……ちょっと驚きだな」
 と、コーイチローは普段まるで抵抗しようとして歯が立たないクアリスのことを思うと、相手が誰であれ、相当の使い手であると理解して良いようだった。
「まあ、そう思っておいてもらった方が、ワシも仕事をしやすい。お前様に仕事の依頼を持ってきたのでね」
「……仕事?」
「まあ、そんなに難しい仕事ではない。ただ、そのための事前面接というわけだ。お前様には申し訳ないんだけど、今後、我々の仕事の駒として、ちょくちょく活動をしてもらえないかと思ってるんだ。お前様のいる高校だと、お前様が一番適役だと判断してねえ」
 コーイチローは頭の中で、急いで考えた。確かに、ネムリは「私」ではなく、「我々」といった。
「うん、ワシも推薦したんだよ。ジェネラルにね……。まあ、元々、最初から候補だったんだけどね。あ、いや、ワシが話しすぎると面接にならないなあ。ワシが聞かないといけないね。ええと、なぜ、この作戦に応募をされたんだい?」
「……応募って、何の話?」
「ああ、あいすまん。間違えた。応募は確かにあったんだけど、お前様のまわりかららの他薦であって、お前様自身からではなかったね。ええ……、これでもわからんか。手引きがなければ、結局は、ワシのようなものは中には入れないよ」
 コーイチローには何の話だかまるでわからなくて、思い当たることを考えるのだが、ネムリが言いたいことが明確にはわからない。ただ、ネムリは本当の詳しいことを話すことはいやがっていることはわかる。ただ、普段の自分を監視している誰かがいるということだけはわかった。それは高校の現実の世界にいる人物なのか、そうではないのかまではわからないのだが。
「ネムリは、僕を何に巻き込もうとしているの? 割とやっかいなこと?」
 ネムリの目が、細く閉じられた。そして、目線をちらちらとさせながら言った。
「『第三次世界大戦』という言葉を聞いたことはある?」
「二〇世紀の前半に起こった大きな戦争のこと? 君たちのご先祖は、ちょうど一〇〇年前のその頃に生まれたということは、知識としては知っているけど……」
 ネムリは手を振った。
「違う違う……それは第二次世界大戦のことだね。『第三次』だよ。最近始まったんだ」
 最近というので、コーイチローはニュースを思いだしてみたが、中東やアジア、アフリカでの地域紛争の話は、たまに聞くような気がしたけど、「第三次世界大戦」なんて、大げさな響きの戦争は聞いたことがなかった。クアリスがいれば、ここですぐにインデックスにまとめるように指示を出せば、ものの五秒ぐらいで揃えてくれると思うんだけど、クアリスは今眠りについているようだから使えない。
 ネムリはそう聞いて、少し意外そうな顔をした。
「ふふーん、お前様のようにいろんな情報を集めるのが得意そうで、ある程度のビヨンドを使ったリテラシーを持っている人物でも、理解はそんなものか。思ったよりも人間社会では、知られていないようだね」
「それは、まるで君らコンピュータだけで、戦争を始めたようないい方をするね」
「ああ、そうだといってもいいのかもしれないね。そうすると、一〇三四時間前に行われた『宣戦布告』を知らないってことだね? 正確には、一〇三四時間二三分三〇秒前」
「ごめん話が飛躍しすぎていて、ついていってない。そんな話聞いたこともないよ」
「それは聞いていたのと話が違うなあ。お前様ならそれぐらいのことを絶対知ってると、推薦者は言っていたぞ。とんだ勘違いか、もしかすると人間違いか」
 と、ネムリは言いだして、そして沈黙した。そして、しばらく間をおいて、ぶつぶつ言い出した。
「ワシも、少し話がうますぎると思っていたんだよ。クアリスレベルのミューズを持つビヨンドサーバがそんなに簡単に掌握されるはずがないんだよね。こりゃ罠かもしれないな……」
「それって、クアリスにはめられて、進入をクアリスは把握していると言うこと?」
「……うむ、あり得る話だ。命令を伝えると、さらに状況を悪化させてしまうかもしれない。ただ、ワシも使命を帯びた身であるから、何もしないで引き上げるとジェネラルに怒られてしまう。困ったのう」
 といいつつ、また顔をぼりぼりと後ろ足でかいている。何となく、何かを考える時の描写と絡めてあるらしい。
「しかし、人間とコミュニケーションを取るというのは時間がかかるな。なるほど、わかってきたぞ、ワシはデータベースの知識としての人間しか知らんかったのだよ。こんなに人間の処理速度が遅いとは思ってなかったから驚きだ」
 結局、ビヨンドだって認めてるじゃないかと、コーイチローは苦笑した。
「こうして話しているだけで、時間かかるからねえ、人間は……。ただ、面接をするには時間がかかるものだろ。だから、リスクを犯してもあえて話すことで、僕の性格や考え方を測りに来たんじゃないの?」
「うむ、またゆっくり、君のことについては聞かせてもらわないといけないが、今日のところは諦めるよ……また隙があるときに話そう。とはいえ、メッセージを伝えなければならない。面接は合格だ……」
 何が面接は合格だと、コーイチローは思った。自分が一方的に話しているばかりのくせにと。ただ、こちらの気持ちを知ってか知らずか、ネムリは平気で話を続ける。クアリスだと脳波のそうした反発を瞬間的に見つけるから注意をする。そうしないというこは、ネムリはコーイチローの脳波のデータを見てないのだろう。もしくは見ることができないのだろう。ネムリは、紙状の画像データを表示させていて、それを両手で広げているような格好をした。
「『コーイチローを○○○○特務情報将校に任命する。以後は、ネムリの指揮下で動くべし ジェネラルS』。これは辞令な……」
「はあ」
 と、コーイチローは絶句した。何を言っているんだ、この猫は。しかも、ノイズがわざとらしく入って、述べられていない部分があった。
「それで、最初の命令だ。図書館の世界文学全集第一三巻 ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』の上に置かれている銀色のケースを、十二時四三分ちょうどに確保し、コーイチローと同クラスの盾野スミレの机の中に、十二時五十五分に、気がつかれないように放り込め。行動は、昼休みの陽動の合図と共に」
 ニヤリと、ネムリが人間くさい顔で笑った。
「第三次世界大戦にようこそ」

2009年7月10日金曜日

1. コーイチロー、保健室で戦争ゲームの話

■あらすじ
 高校二年生のコーイチローは、身体に人工心臓を埋め込んで、外部のコンピュータで制御されるという障害を抱えていた。ある日の体育の時間、保健室でぼんやりしている、コーイチローにコンピュータの疑似人格のクアリスが最近の生活について苦言を言う。それを、黙って聞くのが嫌なコーイチローと、少し言い合いになる。(原稿用紙約25枚)
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 コーイチローにとっては、学校生活というのはいつまで経ってもなじむことのできない、奇妙な違和感が続くようなものだった。その違和感が、なぜ続いているのかは今ひとつ自分自身でも理解できないところがあった。コーイチロー自身は、その原因の一つが自分の身体に埋め込まれている人工心臓のせいであろうと思っていた。一二歳の時に交通事故にあい、大手術の末に、当時最新の技術であった人工心臓が体の中に取り付けられた。細かな制御には、人間の脳の計算能力を超え始めていたコンピュータ<ビヨンドシステム>を使うことで始めて制御できるというものだった。
 コーイチローの身体は常に外部の<ビヨンド>により制御の目的で監視されている。体の中には、人工心臓の他に体内の情報をリアルタイムに確認できる<ナノボット>が血流の中で動いている。これはナノテクノロジーの最新の技術で、リアルタイムに血中の物質濃度を調べることができ、外部に無線でその情報を伝えることができるというものだった。
 数十ミクロン単位の<ナノボット>は、体の中に常に一〇〇〇あまり血流に乗って流れている。ただ、一〇日もすると、老廃物として外部に分解されて出されてしまうので、一週間に一度、病院に行ってコーイチローは<ナノボット>注射を受けなければならなかった。
 しかし、<ナノボット>から得られる情報があるからこそ、正確にコーイチローの身体の状況をビヨンドはモニターすることができ、人工心臓を安全にコントロールすることができる。
 ただ、コーイチローは思春期を迎えたときには、常に自分が外部から監視をされているという気分を味わうようになっていた。自分の身体が自分のものでありながら、どこか自分のものではない。そういう気分がずっと続いている。
 代償として、コーイチローは世間よりいち早く、<ミューズシステム>というビヨンドという高度な計算能力を持った人間に理解しやすい、つまり、疑似人格を持ったユーザーインターフェイスの実証実験に加えられることになった。「クアリス」という名称を持った、老年男性の執事風のアバターが登場したときには驚いたが、会話ができるようになると、逆に彼はコーイチローの身体の状況については、コーイチロー自身よりも正確に理解しているという変な状況に直面することになった。
 クアリスは、人工心臓に負担がかかるようなことを嫌い、そうした活動をコーイチローがしようとすると反対することが多い。コーイチローは自分自身の身体は、ますます自分のためにあるのではないような疑問を感じてしまう。
 自分のなかに、常に他人が入り込んでいる。そういう違和感が、高校生活を始めても変わらず、何となく誰とも深くうち解けることができないまま生活をしているように感じられていた。自分の活動はすべて筒抜けであり、親しくなった友だちの私生活はすべてクアリスに調べ上げられてしまうのではという疑念が湧いたからだ。ただ、それでも、困らなかった。リアルのことに関わらず、ネットに出て行けばいいだけの話だったからだ。

 今日、コーイチローは、保健室のベッドに横になっていた。
 外は、今日も梅雨空。ただ、雨は降らず、曇天が続いている。
 別に、コーイチローは体の調子が悪いわけではない。体育の時間だからだ。コーイチローは人工心臓を付けているために激しい運動をすることができない。筋肉が落ちないように緩やかなストレッチを定期的に行うことは義務化されていたが、跳んだり走ったりするようなことは行うことはできなかった。授業を見学することも多いのだが、夏になって暑くなると、体が変調を起こしやすい。そのため、学校側の特別な配慮で、夏頃には、体育の時間は保健室で横になっていることが認められていた。
 保健室にはベッドが二つ。隣には、どこかのクラスの女子生徒が横になっているようだったが、カーテンで仕切られていたので様子をうかがうことは出来ない。
 コーイチローはぼんやりと天井を見つめている。ただ、本当にぼんやりとしているのではなくて、コンタクトスクリーンに表示されている自分の体調の様子を眺めている。コンタクトスクリーンは、現実の世界のなかに、パソコンのモニターのようなウィンドウを表示することができる。空中の特定の場所にテレビ画面ががあるように扱うことができるのだ。そして、コンピュータと同じように操作することができる。そのため、コーイチローはインターネットに接続すれば、場所を選ばずして、ネット接続をすることができる。
 ただし、基本的には学校の授業時間中にインターネットに接続することは、禁止されていた。なので、今インターネットにつないでいるわけではない。外部に接続しなくても、身体のデータを表示するといったことはできる。
 コーイチローが見ていたのは、自分の脈拍のデータだった。リアルタイムでナノボットが計測してくるデータが表示されていた。下が六十四で、上が九十二と正常値を示していた。刻々と数値は細かく変化していくが、それを眺めていて、それほど楽しいというものでもない。ただ、何となく生きているということを妙に実感させる効果があった。

 そこに、クアリスがのぞき込むような格好でぬっと現れて、視線を覆った。クアリスは落ち着いた顔で、言った。
「退屈そうですね……」
「そりゃ、まあ見たとおりだよ。自分の血圧を見てるぐらいしかできないからね……君がネットに繋げたり、クライアントアプリを使うことを許してくれるなら事情は違うんだけどね……」
「……ご存じのように、学校内の規則で禁止されていますよね。この学校を制御しているサーバとのレギュレーションで、学校の授業中は非常時をのぞいて……」
「うん、長々と説明しなくても、わかってるって……別に文句を言いたいわけではないよ。ただ、することがなくてね……」
 校庭から、雑音にも似たような学生たちの歓声のような音が届いてくる。今日の授業が、何をやっているのかはコーイチローも知らない。球技でもやっているのだろうかと思う。コーイチローはごろりと寝返りをうった。梅雨時らしい身体にまとわりつくような湿気がシーツについて少し気持ちが悪かった。
「それで、何かあったの? わざわざ、こんな授業中に出てくるなんて。おおかた、僕が暇そうにしてるから、話してみて様子の確認でもしようとしたってところかな」
「……確かに、データとしてのマスターは、リアルタイムで観察させて頂いていますからね。血圧も正常値。脳波も正常値。リラックスされているから、あまり複雑な動きはされていないですよね。ただ、話してみないことにはわからないこともありまして」
「昨日、怒ったのは悪かったと思う」
 と、コーイチローは目線をはずして、視界からクアリスを見えないようにした。
 クアリスはどうせコンピュータグラフィック映像なために、見えようが見えまいが、クアリスの判断には、本当は関係ない。コンタクトモニターの座標から、コーイチローの眼球が向いている位置を計算して、クアリスのアバターの方向がどこに向いているかどうかという計算はしているにしても。わざわざアバター姿で現れるのは、多分に心理効果で影響を与えるためにをしていることは、コーイチローもわかっている。
「途中で、話を区切ったのはね。もちろん、僕の身体のことを考えれば、君が言っていることの方が正しいのはわかるんだけど、昨日はちょっとイラッと来たんだ」
「はい、その後、私が話を続けるのをお許しにならなかったので、私も少々面くらいました。私にも立場というものがありまして」
 ふっと、コーイチローは少しため息気味の息を漏らした。
「ただ、別段、何かの迷惑がかかっているわけではないだろう。クアリスは、何かと文句を言いすぎる。僕にだってやってみたいことがある。それを尊重してくれないと」
「ええ、ただ、最近のマスターはゲームにのめり込みすぎです。確かに、今熱中されているゲーム『トレビアンⅩ』には一定の教育効果があることは認めます。ただ、あまりに熱中しすぎなのにはどうかと思うんですよ。昼も夜も、ゲームのことばかり考えられていませんか? あまり健康的とは言えないと思うのですよ」
「しょうがないじゃないか、今、僕が所属している同盟はやっと三十人規模になってきていて、僕が育てている村も三つにまで成長してきた。軍隊だって、一度に千を超えるような大規模なものにまで、成長してきたんだから。ランキングが上がっていくのは楽しいぜ」
「思考ゲームとしてのおもしろさは認めます。今、マスターが隣のプレイヤーと争っているオアシスを占領できるかどうかが、マスターが所属している同盟にとっては生命線になっていますよね。続々と軍隊が集結している姿に興奮されているのは、血圧を見ていればわかりすぎるぐらいわかります」
 コーイチローは、むすっとした顔になった。慣れているとはいえ、やっぱりこうして自分が監視されているという事実を突きつけられると気持ちがいいものではない。
「マスターは、今だって、そのゲームのことを考えていたのでしょう。二十四時間のリアルな時間でゲームは進行するから、自分の村が攻められてないかどうか気になってしかたないんでしょう」
「……知ってるなら教えてくれよ……」
「はぁ、これだ……」
 と、クアリスはお手上げといわんばかりに、手を広げてみせる。
「こっちは高校生で、社会人の連中にしてもそうだけど、どうしても昼間は学校に行ったり、会社に行ったりするから隙ができてしまう。有利なのは、家に引きこもっている連中やら、仕事しながらでもネットにつないで仕事さぼっている連中なんだよね。昨日の深夜の状況は知ってるだろ。合同で軍事演習をしておかないと、同盟で戦闘を行っても足並みがどうしても揃わない。僕の村の虎の子の騎馬兵軍団を有効に利用して、足についての技術力を上げておきたかったんだよ」
「ええ、それで演習中に、敵対する連中に不意をつかれたと……」
「うん、明らかにあれは裏切りだった。誰かが手引きしたんだよ。扇形に同盟の軍隊が展開することに見事にできているときに、後方から突然敵が現れたりはしないよ。通常は一万を超えた部隊は、平原に展開して会戦になるものだからね。オアシスの南側は山岳地帯で、誰かの領地を通過させることを認めなければ、そんな裏から攻めこむことはできないからね」
「敵はそれほど多くはなかったから、幸い撃退できたと……」
「うん、同盟の指揮権をまとめているのが、タクワンという人なんだけど、あまり動揺しなかったのは見事だったと思う。僕の騎馬部隊も撃退には一役買えたしね。経験値稼ぎにはなってる」
 と、コーイチローが興奮気味に話しているのを、クアリスは困ったような顔になる。
「ただ、その会戦の訓練がはじまったのが十時頃だったのはよかったのですが、攻め込まれたのが十二時近くで、混乱から何とか立て直すのに二時間近くかかってましたよね。さすがに、私としてはお休みくださいといわざる得ないんですよ。マスターが寝不足になりますと、即、それは血圧の上昇に結びついてしまいます。だから、今日ちょっと朝は具合がよくなかったではないですか」
「だから、こうして、横になってるだろ……。体を休めれば、まあ、どうにかなるものじゃないの? 身体のデータ的に変なものが出ているわけでもないんだし」
「それはそうなんですけどね。ただ……」
「ただ?」
「いいえ、やっぱり言うのはやめておきます……。私としてはマスターに体調を落ち着かせて一定の範囲内に収めるように努力をして頂きたいだけなんです」
「何か引っかかるなあ……」
 と、ベッドから起き上がって、コーイチローは思案顔になった。
「あ、もしかして、誰が裏切ったのか、わかったということじゃないのか? 朝起きてすぐに同盟専用の隠し掲示板をチェックしたけど、誰が山岳地帯に進入する手引きを行ったのかがわからなくて、言い合いになっていたよね。でも、同盟のなかに裏切りものは確実にいるわけで、早くそれを見つけ出さないと全体が危険なのは、君だってよく知ってるよね」
 コーイチローのひらめきに少しばかり、クアリスは迷惑そうな顔をした。
「……はぁ、まあその通りなんですが……。人間が遊んでいるゲームに、我々のようなミューズシステムが関わるのは不公平だと思うのですよ。ゲーム上では、そういう規約になってますよね」
「ただ、こうした会話が記録に残るわけでもないので、勝ちたいヤツは、そういう手段も当然使っているよね……」
「それでも、ミューズシステムの利用者は世界的に見て、それほど莫大ではない以上、マスターは、もし使うと、かなりの優位性を持ってしまいますよね」
「細かいことはいいから、何が起きたのかを端的に教えてほしいなあ。どのみち、君は常にネットのビヨンドサーバの中にいるわけだから、僕に関係する情報は全部チェックしているんだろう……」
 クアリスは、さらに困ったような顔をした。少し眉間に皺が寄っているようだった。
「……今夜には、同盟は大敗北を喫します。多分、マスターが派遣している騎馬部隊も壊滅的な被害を受けることになるかと……」
「えっ!」
「しかも、その仕掛けをしているのは、そのタクワンさんという方ですね。……なので、そろそろ、ゲームから足を洗って頂きたいのですよ。先に予告してしまえば、無駄にやる気が湧くということもなくなると思うので、適切じゃないかと思ったので、告白しました」

 クアリスの説明では、タクワン氏は、すでに裏切っていると考えられるという。昨日の攻撃は、同盟の部隊にとって大きな影響を与える攻撃ではない。最大の目的は、会戦時に自分の部隊が撤退するルートを確保するためであった可能性が高い。誰もが、裏切った犯人がわからない以上、同盟のリーダーであるタクワン氏がそこを守ることに反対するとは思えないからだ。
 今回の会戦でも、扇形の左翼につながるルートで、タクワン氏の主力部隊が展開しているところに敵が出ている。つまり、タクワン氏は、敵の登場を事前にわかっており、示し合わせて撃退した可能性が高いというものだった。

 コーイチローは少しばかり興が冷める気分になった。
「なんだか、嫌な話だなあ……でも、どうしてそんな話をわざわざ僕に話すわけ? それを聞いた以上は、逆に、学校から帰って、味方のみんなにふれ回って対抗策を打つようになる可能性の方が高いんじゃないかな。ミューズシステムは、そもそもは、人間の思考を確率的に予測して、人間の行動を誘導してしまうシステムだよね」
「ええ……」
「とすると、事前に情報を話した場合、僕がやめてしまわないで、むしろ、逆効果で熱中度を上げてしまう可能性がありうることは、当然予測が付いたはずだよね。だけど、それでもやめてしまう可能性が高いと予測できたからこそ、あえてこうして話しているということだよね」
 クアリスは相変わらず困ったような表情をしている。ただ、目がちょっと笑ってない。まあ、コンピュータグラフィックなので、どんな顔を描くことだって実際はできてしまうわけで、それが本来の表情として受け取るのは難しい。
「……もう少し申し上げにくいことがあるのですが、それでも、申し上げますと、相手もミューズシステムを利用している可能性が高いのです。このゲームの中での、今の攻撃方法はミューズシステムを利用している場合の定石手と考えられるんですよ」

 クアリスによると、タクワン氏の今までのフォーラムでの発言や、部隊を動かすときの発言を見ていると、年齢的には、中学生ではないかと予想されるのだという。稚拙な発言をすることがあるなあと、内心コーイチローも思っていたのだが、だけど、決めなければいけないときにはびしっと決める。一方では、そういうリーダーシップを快く思っていた。
「なるほど、彼のリーダーシップ性は、君らミューズに依存していたと言うことなんだね。君らが手伝って的確なときに発言させるように導いて、それが他のメンバーにも予想通り効いていたというわけか」
「はい、彼の発言を私のフィルターで処理すると、パターン<橙>になります。これは、ミューズシステムだと考えて良い兆候なんですよ。あ、あと、一言付け加えますと、、『君ら』に私を含めないでくださいね。今まで、このゲームのズルをするための、お手伝いをしたことはないですよ。我々は確かに、ミューズシステムとして様々な情報をサーバ上で共有はしており、それらのデータを更新しあうことはしています。ただ、完全に共通にするように並列化をしているわけでないですよ。私は擬似的とはいえ、私の人格として、個性を持ってマスターにお仕えしているわけです」
「まあまあ、そんなに怒らないでくれよ。ただ、つまり、タクアン氏がズルをしているのが、逆を言えばゲームを運営しているゲーム会社の側にもばれてしまっているってことになるわけだね。となると、どのみちアカウントが停止される処分になる可能性が高いから、そうすると同盟は崩壊してしまうと言うことか……」
「はい、その可能性は高いですね。タクワン氏の発言を見ていると、同盟の皆さんへの発言の八割はこの一週間、ミューズによるものと思われるんですよ」
「うーん、じゃあ逆に、クアリスが手伝って、この状況をひっくり返したりすることは出来ないのかな。それだけ情報を持っているわけだから」
 それが…と、話を区切るように一言クアリスは間を置いた。
「我々ミューズの活動は、すべての活動がログ化されて、データベースに蓄積されていきます。人が理解するには、我々の活動は、速度が速すぎて個々の情報を分析するのは難しいですよね。そのために、我々ミューズを媒介にして、データベースも理解することになる」
「ビヨンドインターネットってヤツだね。開かれているデータベースだけど、人間の知性では、その膨大な量を処理して、中身を理解することが難しいビヨンドたちの活動によって形成される巨大なデータベース。メタ化されたインターネット。まあ、こうして僕は、君を通じて、それらの活動のことを聞けるわけだけど……」
「はい、そのシステムは日々進化を続けていくわけですが、このゲームに参加されている人のサポートを行っているミューズシステムの情報もどんどんと蓄積されていくわけです。基本的にミューズシステムのルールとして、誰のミューズであるのかという情報は公開されることはありませんが、行った行動自体の情報を隠蔽することは出来ません。そのため、ミューズの力を利用しながら、このゲームに勝とうとするユーザーの動向や傾向は、すぐに情報としてインデックスが作成されて整理されていくことになります」
「そして、そのデータベースのインデックスをゲーム会社のビヨンドサーバは参照するため、基本的にそれぞれのユーザーはズルをすることができないという訳だね」
「はい、その通りです。違反行為をやっている人は、発見が容易にできます。特に、人とミューズが共同して作業をする場合、同じような着目点に注目する場合が多いので、すぐにパターンが出てきやすいんですよ。だから、私はマスターにこういう話を伝えたと言うことも、その後の結果は、すぐにログに反映されてしまうので、統計データが出てくることになります」

 コーイチローは、クアリスが何を言いたいのかをちょっと頭の中で整理しようとした。このデータベースは、コーイチローの人工心臓を適切に動作させるためにも使われている。そのため、人工心臓を使う人が増え、その人が使い続けるにつれて、様々なパターンが集まるために、ソフトウェアの性能が上がっていくので、より使いやすいハードウェアに変わっていく。実際、コーイチローが使い始めた十二歳の頃よりも、同じ人工心臓を使っているけど、ソフトウェアのアップデートによって、性能ははるかに上がっている。
 ただ、同じことがゲームのズルをしている人の監視システムにも使われていると、クアリスは言いたいのだろう。
 そして、さらにいうならば、その種を明かしてしまうことで……。

「わかった。つまり、この話をミューズから聞いてしまった人が、ゲームを継続するかどうかについて、どう行動するのかはだいたい予想が付いてしまうと言いたいわけだね。十分にその結果の予測が付いたからこそ、話していると」
「……はい、どう転んでも、やめてしまう人が大半という結果になっています。なのでお伝えしています……申し訳ありません」
「タクワン氏が同盟を裏切るのがわかっているので、その活動を押さえようと走り回っても、結局、タクワン氏自身がいずれゲームシステムから違反が認定されてアカウントが排除されてしまうと……。逆に生き残れたとしても、同盟の中で最大の軍団を備えているタクワン氏は裏切って、どのみちいなくなるので、僕のいる同盟は相当弱体化するため、まわりの他の勢力の餌食になってしまう可能性が大きいと……」
「有り体に申し上げると、そういうことです」
「ついでに言うと、この裏切りというショックが起きる前に、先に将来像を全部見せてしまった方が、やる気を失う確率は飛躍的に高くなる……と予想できているということだよね……。帰宅して、裏切りに、今夜直面してしまう前よりも、先に伝えた方がよいと」
 クアリスは、幾分か申し訳なさそうな顔をしていた。コーイチローはこうしたときに自分の心が自分のものではなくなっているという現実を感じる。ただ、この顔だって、「ゲームをやめさせる」という目的のために、クアリスがワザと作っている表情である可能性はぬぐいきれない。

 コーイチローの心のなかに、何かもやもやとした、そして、鬱々とした感情へと結びついていく感覚が襲ってくるようだった。自分が自分でない感覚のするものへ。その感情さえも、クアリスは予見しているのだろうかと、コーイチローは考える。
 そのときに、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。議論の時間はお終いになったようだ。確かに、コーイチローの最新ゲームへの情熱に、ずいぶんと冷や水がかけられた気分になっていた。
 ベットから立ち上がって、隣のベットの様子をうかがったら、女生徒の姿はなかった。クアリスの声は、他の人には聞こえないので、ぶつぶつ言っているコーイチローの姿を不気味に感じたかもしれない。

2009年7月9日木曜日

0. コーイチロー、作者を突っつく

□あらすじ
 高校二年生のコーイチローは、身体に人工心臓を埋め込んで、外部のコンピュータで制御されるという障害を抱えていた。そのコンピュータはインターフェイスとして疑似人格クアリスというシステムを持っている。そういった設定の二人が、この物語を執筆する作者についてのそもそもの評論を始める。(原稿用紙約15枚)
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 高校二年生のコーイチローが、所在なさそうに自分の部屋で、キーボードに向かってかたかた叩いている。
 そこに、<ユーザーインターフェイスエージェント>のクアリスが姿を現す。
 お爺さんと言うには気が引けるとはいえ、老年期に近い髪に白髪の入っているアバター姿で設定されており、執事姿の服装をしている。その姿は、そのシステムのディフォルトの姿で一般的には、様々な格好に修正するものなのだが、コーイチローはその姿を気に入っていた。
 クアリスは、コンタクトモニターを付けていれば、誰でも見ることができる。コンタクトレンズの中にコンピュータ画像を表示するシステムで、眼球に直接映像を映し込むために、空間と一体化している違和感のない印象がする。
 本来であればコンピュータグラフィックスの映像にもかかわらず、ほぼ実際に人間がその場所に座っているかのような印象がする。

 クアリスはモニターをのぞき込んむ。その気配に気が付いたコーイチローは、クアリスの方を振り返った。四畳半の自室の狭い部屋のなかに、タキシード風の格好をしているお爺さんがいる落差は、ギャップがあり、ちょっとばかりコーイチローは吹き出したくなるのだが、そういう所が、気に入っていた。
「今日は何の作業をされているのですか?」
 と、クアリス。
「んー、別に何か明確な目的を持ってキーボードを叩いているわけではないよ。くだらないメールが来てたり、SNSに書き込みをしたり。人が書いたブログを読んでみたりという感じ。そういうことをぐだぐだやっているだけでも、すぐに二時間ぐらいは過ぎてしまうからね」
「確かに、勉強をされているという様子には見えなかったですね」
「何か用? って、どこかから何かのイベントが起きないかってことを期待しているような感じかもしれないね。向こうからイベントがやってくれば、それに応対しなければならないから、何となく忙しいふりができるんだよね。こうして、SNSを見たりしているのだって、単なる時間つぶし。そこに意味があると信じて、そう思いながら本当は意味がないんじゃないかって、思ってる」
 と、コーイチローは席をぐるっと回して、クアリスの方を向いた。
「用ってほどのものではないのですけどね。我々の方から話を始めないと、また、動かないんじゃないかという、疑問というか、心配を感じているんですよ」
「ああ、作者のことね。相変わらずぐずぐずしているみたいだね。我々を表に出すと決めた割には、我々の話を実際に執筆する段になると、相変わらず迷ってる」
「ええ、先週は作者自身が体の調子を崩されていたので、少し同情できる部分もあったと思うんですよ。ただ、せっつかないと実際原稿を書ける時間は、残り一ヶ月ぐらいのものではないかと思うんですよ」
 と、クアリスは少し困ったような顔をしている。ただ、その困った顔は、コーイチローに向けた顔なのかは少しばかり怪しい感じがする。どこかの別の人間に向けたアピールのように見える。
「実際、甘え過ぎなんだよ、作者は。自分が実際には相当恵まれた境遇にもあるにもかかわらず、自分の才能が足りない、努力が足りない、アイデアが浮かばないとかとか、結局、何かと作業を進めようとしない。病気だって言い訳のように思えることがあるよ」
「さすがに、そこまでは言いすぎではないかと。私自身は、作者に少しばかり同情する部分はありますね。実際に体調が悪いときには、何も考えられないで動けない印象がありますからね」
「まあ、こうして我々が動いているということは、今日はちょっと体調がいいということなのかな」
 と、コーイチローはため息混じりに天井の方を見上げた。
「どうも、そのようですね。私も少しばかり心配していたのですが、昨日に比べるとだいぶよくなっているような印象も受けます」
「君らのビヨンドタイプのコンピュータは、僕の身体のいろんな部分をデータ化するための機能を持っている割には、僕らの上にいる『作者』のデータを取ることは出来ないんだね」
「はあ、それは難しいですね。私が自分のサーバシステムについての全貌を把握できないのと同じようなものです。私には、作者にアクセスする権利が認められていないのですよ。かといって、我々がまったく理解することができないかというと、そうとも言えないですね。天気を見上げるようなものです」
「まあ、いわんとしていることはわかる。今日は、何となく薄曇りというような感じが、我々のいるこの世界にも伝わってくるものね」
 と、コーイチローは、自室から見える窓に目をやった。外は白くたなびく曇が流れている。梅雨の終わりを感じさせつつも、日の光がかすかに感じられ、それは来るべき暑い夏を予感させるような天気だった。
「作者は、大きく振りかぶりすぎ……、なのじゃないだろうか。作者が大きな目標を設定して、そこに向けて努力を傾けていくタイプってことは、僕も知ってるんだ。作者が普段書いている原稿自体は決して悪いものではないと思うよ。ただ、我々のような架空の存在が登場するような物語に作者が向いているかというのが課題だと思うんだよ」
「そうですね。作者は、どうしても、物事を分析する能力に秀でていると思われますね。また、あまり欲が強くない。お金を得ることをよりも、教養を高めるというところにエネルギーを注いでいる。これは、昭和の時期ぐらいまでには見られた大学生のイメージを引きずっているように思えるんです」
「知識人……ってやつね。そもそも、そこが古い!」
 と、コーイチローは手にしたペンを、クアリスを指すようにくっと向けた。
「社会はずいぶんと変わったと思うなあ。教養を高めていけば、何かいいことがある。社会のために役に立つ。そう信じられていた時代が確かにあった。今の同人誌をやっている人たちの中に、儲けに走ることを嫌うのがいるのはそういう文化の残りじゃないかとさえ思えるよ」
「なかなか、時代評論としてはおもしろいことをおっしゃいますね……」
「うん、お金を生み出すことに絡まっていないと、結局は社会で物ごとを回すことができない。お金を安定的に生み出すにはコード層を支配するしかなく、そのコード層は作者にとって何か?という問題だと思うんだよ」
「コード層は、コンピュータのプログラムなど、他人が破壊できない法律的な意味を持つものですね。ウィンドウズといったOSで決められたルールは、日本の法律より影響力が大きく絶対的ですからね。ただ、マスターがここで言われているのはもう少しニュアンスが違うと理解してもよろしいですか」
「そうだね。コンテンツの制作者の場合には、安定的に収益を生み出してくれるような権利を持つ知的財産のようなものだよね。ずっと増販が続くような人気作品のようなもののことだよね。その何かだけによって、収益が安定的に出せるような何物かという意味だね。賃貸で人に貸している土地のようなものも含むといっていいのかもしれない」
「安定的に収益を生み出す資産ということですね。今は、一番収益を出す方法がコンピュータなどのコード層、特にインターネットに関わるものを押さえている場合が一番利益を生み出しますね。作者が生きている2009年年頃の例は、グーグルやマイクロソフトがその典型と申し上げてもいいかもしれないですね」
 と、クアリスがいう。
 クアリスだって設定上は、ビヨンドサーバ上の疑似人格だ。だから、コーイチローの身体を完全にコントロールするシステムでもあるわけで、自分のコード層はクアリスに握られているようなのもではないかと内心感じている。今の時代、コード層は、人間の体の中にまで入り込んでおり、クアリスに反乱を起こされると、クアリスに制御を任せている以上、<人工心臓>を抱えているコーイチローは一発で死に直面する。
 コーイチローは一二歳の時に交通事故で大きな手術を受けて当時の最新技術である<人工心臓>を身体に入れることになった初期患者の一人だ。その心臓の制御は、ビヨンドシステムと呼ばれる、人間の脳の演算能力を超えているコンピュータサーバ群に任せることで、はじめてなりたつ。いわば身体の一部をコンピュータ化したのだが、同時に、それは意志を持つコンピュータの日常への進入も意味してた。

「作者は、何となく自らが恵まれているとはいえ、現実の収入としては貧乏と感じていて、悩んでいるという印象がするね。食うに困るというほど貧しいわけではないけど、将来に対しての漠然とした不安を抱えているというか……、この後、自分の人生がどのように展開していくことになるのだろうということが予期できないことを恐れているというか……」
「それは作者の時代が抱えている特有の問題でもあると思われるのですがどうでしょうか」
「うん、いいたいことはわかる。教養というものに何か価値が発生するという時代は、どこか精神的なゆとりのようなものがなければいけない。だけど、作者の時代にはそういう余裕がなくなりつつあって、誰もが自分の生活や、自分のことばかりに関心を向かわなければならなくなってしまった。だから、自分だけが抜け駆けして、お金を得る手段がないだろうかと迷っている時代だよね」
「ええ、各家庭で自由に使えるお金である給料から税金や生活していく最低限の費用を差し引いた自由に使えるお金<可処分所得>が、減少が激しくなってきていた時期ですね。そして、戦後の団塊の世代ジュニアと呼ばれる人数が多い層が中年を迎える時期。それにもかかわらず、四〇%が結婚をしていないという状況で、子供も生まれなかった」
「だから、社会そのものに停滞感が広がって、何となくどう生きればいいのかという指標が失われようとしていた時機だよね」
 と、突然、コーイチローは天井に向かって言った。
「おっ、作者、原稿書けるじゃないか。もしかしたら調子がちょっと回復しつつあるじゃないのか。思うんだけどさ、結構、こうした対話形式はいい線を行っているんじゃないかと思うんだよ。自分の地に近いからさ。これをもう少し推し進めてみたらどうかな」
「はい、私の人格もより明瞭になりつつなりますよね。筆が書き始めるまでにどうしても時間がかかるということはよくわかっているので、そこまで持っていくのは大変だというのはわかっているのですが、それでも状況は絶望すべき状況ではなく、むしろ、可能性が見えてきたと言えるのではないでしょうか?」

 と、ちょっとだけコーイチローはにやりとしながら。
「このまま公開してしまうって方法は、どうだい? どうやって、ブログ等を利用すべきなのか、まだきちんと決め切れてないわけだろ。こういう対話自体のプロセスを見せることは決して悪いことではないと思うんだよ」
 クアリスも天井を仰ぎながら、少しばかり状況を感じ取ったようだった。
「作者が、迷いながら、こちらになら可能性があるのかもしれないと思い始めているような気配を感じていますよ。そこに書くという習慣を付けることによって、スキルアップできる可能性があるのではないかと」
「うん、正攻法で攻めるべきなんだよ。作者らしいね。これは通常で考えると変化球なんだけど、変化球こそが今の時代は正攻法なことは作者自身が知っていることだろう?」
 夕方に染まった空に、雲がたなびいていた。濃かった雲の帯は、もう少し緩やかになり、日が差すような印象になってきた。