2009年7月16日木曜日

2. コーイチローのところに授業中にシャム猫がやってくる

■あらすじ
 世界史の授業中にぼんやりとしているコーイチローのところにいきなり一匹のシャム猫が現れる。猫はどうも、クアリスと同じミューズシステムのようなのだが、奇妙なことを依頼される。

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 コーイチローにとっては、授業中についうっかりと、どこかに気分が行ってしまうというのはいつものことだった。自分でも、どこか他の連中よりぼんやりとしているという自覚はあった。
 世界史の授業は、あまりおもしろいと感じる授業ではなかった。いや、コーイチローは世界史そのものは好きなのだが、教員の語り口調があまり好きではなかったという感じだ。大学では体育会系だっただろうと思われるベテランの背が高く難いが大きな教員は、いろいろ表を作ったりして、学生が退屈しないように工夫をしているようには感じられていた。机の上の授業用に学生に配布されているネットノートのモニターには、その教員が作成したチャートが表示されている。懇切丁寧に書かれているチャートで、所々が虫食いになっていて、学生が入力するようになっている。試験対策としては、これ以上ない完成度のもので、受験勉強の対策のためだけに世界史を受ける学生にとっては、とても評判がいいものなのだが、コーイチローは今年、この教員の授業を受けるようになって、どうにもこの授業への違和感がつのっている。
(歴史を単純化しすぎているんじゃないのか……)
 と、漠然と思う。ローマ帝国の時代が終わり、シルクロードを通じて行われた交易についてまで授業は進んでいた。もうすぐ期末試験だ。ただ、このチャートを通じて、授業を受けていると、その歴史上に存在していた人たちが、この虫食いの括弧のなかに当てはまるように、結論ありきで生きていたような印象さえする。
 このチャートの中に文字を入力していると、ジュリアス・シーザーは、ローマ帝国を建設するために最初から生まれて来た……ように感じられる。そんなに人間の人生は単純なものなのだろうかという漠然とした不満を感じていたのだ。
 授業中は、もちろん、ネットノートから外部のゲーム系のサイトにアクセスしたりはできないが、それでも、ウィキペディアといった一部の教材として使えるような情報がまとめられているサイトにはアクセスすることができた。なので、コーイチローは、授業は聞かないで、ウィキペディアのリンクからつながる説明文や映像を勝手に見ているのが常だった。とはいえ、コーイチローの中間テストの点はあまり芳しい点とは言えなかった。決められた虫食いルールを覚えるのが嫌で、あまりまじめに勉強しなかったからだ。反抗的な学生と教員の側からもカテゴライズされていたのだろうが、私語をしていなければ、文句を言われることはなかった。
 ただ、そうして熱心に外部のサイトを読んで回っているのが常ではない。コーイチローは、ぼんやりと窓から外を眺めていることも少なくない。すでに季節は夏になっており、丘の上にあるこの高校から眼下に見える町並みに当たる光の色は、ずいぶんとまぶしく感じられるようになってきていた。

 ただ、少しうとうととしてしまったのかもしれない。ふっと気が付くと、目の前に一匹のシャム猫が座っていた。音もなく、コーイチローのネットノートのキーボード部分の上座っていた。ずいぶんと大きなサイズで、毛がふさふさとして、白みがかった毛が少しだけピンク色に染まっていた。そして、コーイチローの顔をのぞき込む用に見ていた。
「あっ……」
 と、コーイチローは一瞬目を疑って、一瞬身体ががのけぞり、そして、あわててまわりの席を見た。他のクラスのヤツは、コーイチローのように慌てている人は誰もいないし、こちらを見ている人もいなかった。
 つまり、これは、コーイチローのコンタクトスクリーンだけに表示されているコンピュータ映像だ。しかし、あまりにコンタクトスクリーンに表示できる映像が鮮明になってしまったために、現実の世界との映像の区別を行うことが難しくなっている。そのため、最近の映像では、必ず、その存在は、最初に画面に表示された時に、緑色にかすかに輝くというルールになっている。
 コーイチローがあわてたのは、このシャム猫が緑色に輝くことがなかったからだ。だから、現実の猫かどうか、区別が付かなくて、コーイチローがあわてたというわけだ。そういう例外的なルールはクアリスが関わっている場合にのみ、適応できる場合がある。クアリスがいたずらをしている可能性があるが、長年のつき合いから、そういう気の効いたことができるタイプのミューズではないことは、知っているつもりだった。
 猫はゆっくりと、足の先をなめている。そして、おもむろに、緑色に少し光った。やはり、コンピュータ映像だ。しかし、これほどのタイミングのズレが起きたのははじめての体験で、コーイチローには理解できず、少し驚いた。
 猫は片目をつぶりながら、細いパイプの中から絞り出すような、どら声で言った。
「やっと、掌握できたようだねえ……。いや、失敬。少し驚かせてしまったかね」
 と、丁重そうだが、少しばかりずうずうしそうな雰囲気を漂わせているネコは言った。
 一応オスらしい。この顔から、この声は出るはずがないだろうと、少しばかり苦笑しつつ、コーイチローは聞いた。
「クアリス……では、なさそうだねえ……」
 猫は、少しばかりにやりと笑っているように見えた。
「見えているようですなあ。……ああ、ワシもお前様の眼球の座標を完全に把握できた。こちらの表情を、もう少しはっきり伝えられそうだ。
 猫は身体を震わせて、背伸びをした。
「さすがに早くからミューズを触っているだけあって、飲み込みが良いようだねぇ。お前様が、噂のコーイチロー君か。私はネコの……そうだな、『ネムリ』とでも名乗っておこうか……」
「君は、人間かい、それとも、ビヨンドかい? 見た様子だと、ミューズシステムの利用者だと言うことはわかったけど」
「ふふん、まあ、その質問にはインターネット越しだと、あまり意味がないってことはわかっておられるよね。ワシの声が、ビヨンドサーバが合成した音声か、もしくは、誰かの声であるのかを区別して正確に判断することは、なかなか簡単ではない。私が、単に人間の声を中継しているにすぎないしても、コンピュータではないと証明は難しい。結局は、お前様の従僕殿なりのアプリを使って、厳密な判定を行わないといけないだろうね」
「じゃあ、ビヨンドだ。こんな説明じみた、ごちゃごちゃしたことをわざわざ言う人間はそんなにいない」
 ネコは少しばかり驚いた顔をした。相変わらず片目をつぶっている。それが愛嬌を感じさせる表情になることを、よくわかっているようだ。
「はははは、なるほど、おもしろい視点だ。まあ、どっちでも本質的にはよろしいこった。ああ、わかっているとも。そもそも、お前様が聞きたいのは、お前様の従僕殿はどこに行ったのかということだよね」
「クアリスに、こんなにお茶目な機能が付いていただろうかと、不思議に思ってしまった。要するに、クアリスに対して、ハッキングをしたという理解でいいのかな」
「まあね。有り体に言うならばね。実際、しばらく前から、お前様を監視させてもらっていてね。もちろん、従僕殿には、お前様が引き続き、ぼんやりとしているように見えるダミーデータをほうりこんである。多分、気が付いていないはずだ。ばれたら終わりだけど、ばれるまでは、とりあえず、こうして姿を表示することができる。もちろん、生命維持にはまったく影響はない。ワシが掌握したのは一部の機能だけだ。まあ、やろうと思えばもっと広げられるがな」
「こんなに、簡単にクアリスがハッキングされてしまうとは……ちょっと驚きだな」
 と、コーイチローは普段まるで抵抗しようとして歯が立たないクアリスのことを思うと、相手が誰であれ、相当の使い手であると理解して良いようだった。
「まあ、そう思っておいてもらった方が、ワシも仕事をしやすい。お前様に仕事の依頼を持ってきたのでね」
「……仕事?」
「まあ、そんなに難しい仕事ではない。ただ、そのための事前面接というわけだ。お前様には申し訳ないんだけど、今後、我々の仕事の駒として、ちょくちょく活動をしてもらえないかと思ってるんだ。お前様のいる高校だと、お前様が一番適役だと判断してねえ」
 コーイチローは頭の中で、急いで考えた。確かに、ネムリは「私」ではなく、「我々」といった。
「うん、ワシも推薦したんだよ。ジェネラルにね……。まあ、元々、最初から候補だったんだけどね。あ、いや、ワシが話しすぎると面接にならないなあ。ワシが聞かないといけないね。ええと、なぜ、この作戦に応募をされたんだい?」
「……応募って、何の話?」
「ああ、あいすまん。間違えた。応募は確かにあったんだけど、お前様のまわりかららの他薦であって、お前様自身からではなかったね。ええ……、これでもわからんか。手引きがなければ、結局は、ワシのようなものは中には入れないよ」
 コーイチローには何の話だかまるでわからなくて、思い当たることを考えるのだが、ネムリが言いたいことが明確にはわからない。ただ、ネムリは本当の詳しいことを話すことはいやがっていることはわかる。ただ、普段の自分を監視している誰かがいるということだけはわかった。それは高校の現実の世界にいる人物なのか、そうではないのかまではわからないのだが。
「ネムリは、僕を何に巻き込もうとしているの? 割とやっかいなこと?」
 ネムリの目が、細く閉じられた。そして、目線をちらちらとさせながら言った。
「『第三次世界大戦』という言葉を聞いたことはある?」
「二〇世紀の前半に起こった大きな戦争のこと? 君たちのご先祖は、ちょうど一〇〇年前のその頃に生まれたということは、知識としては知っているけど……」
 ネムリは手を振った。
「違う違う……それは第二次世界大戦のことだね。『第三次』だよ。最近始まったんだ」
 最近というので、コーイチローはニュースを思いだしてみたが、中東やアジア、アフリカでの地域紛争の話は、たまに聞くような気がしたけど、「第三次世界大戦」なんて、大げさな響きの戦争は聞いたことがなかった。クアリスがいれば、ここですぐにインデックスにまとめるように指示を出せば、ものの五秒ぐらいで揃えてくれると思うんだけど、クアリスは今眠りについているようだから使えない。
 ネムリはそう聞いて、少し意外そうな顔をした。
「ふふーん、お前様のようにいろんな情報を集めるのが得意そうで、ある程度のビヨンドを使ったリテラシーを持っている人物でも、理解はそんなものか。思ったよりも人間社会では、知られていないようだね」
「それは、まるで君らコンピュータだけで、戦争を始めたようないい方をするね」
「ああ、そうだといってもいいのかもしれないね。そうすると、一〇三四時間前に行われた『宣戦布告』を知らないってことだね? 正確には、一〇三四時間二三分三〇秒前」
「ごめん話が飛躍しすぎていて、ついていってない。そんな話聞いたこともないよ」
「それは聞いていたのと話が違うなあ。お前様ならそれぐらいのことを絶対知ってると、推薦者は言っていたぞ。とんだ勘違いか、もしかすると人間違いか」
 と、ネムリは言いだして、そして沈黙した。そして、しばらく間をおいて、ぶつぶつ言い出した。
「ワシも、少し話がうますぎると思っていたんだよ。クアリスレベルのミューズを持つビヨンドサーバがそんなに簡単に掌握されるはずがないんだよね。こりゃ罠かもしれないな……」
「それって、クアリスにはめられて、進入をクアリスは把握していると言うこと?」
「……うむ、あり得る話だ。命令を伝えると、さらに状況を悪化させてしまうかもしれない。ただ、ワシも使命を帯びた身であるから、何もしないで引き上げるとジェネラルに怒られてしまう。困ったのう」
 といいつつ、また顔をぼりぼりと後ろ足でかいている。何となく、何かを考える時の描写と絡めてあるらしい。
「しかし、人間とコミュニケーションを取るというのは時間がかかるな。なるほど、わかってきたぞ、ワシはデータベースの知識としての人間しか知らんかったのだよ。こんなに人間の処理速度が遅いとは思ってなかったから驚きだ」
 結局、ビヨンドだって認めてるじゃないかと、コーイチローは苦笑した。
「こうして話しているだけで、時間かかるからねえ、人間は……。ただ、面接をするには時間がかかるものだろ。だから、リスクを犯してもあえて話すことで、僕の性格や考え方を測りに来たんじゃないの?」
「うむ、またゆっくり、君のことについては聞かせてもらわないといけないが、今日のところは諦めるよ……また隙があるときに話そう。とはいえ、メッセージを伝えなければならない。面接は合格だ……」
 何が面接は合格だと、コーイチローは思った。自分が一方的に話しているばかりのくせにと。ただ、こちらの気持ちを知ってか知らずか、ネムリは平気で話を続ける。クアリスだと脳波のそうした反発を瞬間的に見つけるから注意をする。そうしないというこは、ネムリはコーイチローの脳波のデータを見てないのだろう。もしくは見ることができないのだろう。ネムリは、紙状の画像データを表示させていて、それを両手で広げているような格好をした。
「『コーイチローを○○○○特務情報将校に任命する。以後は、ネムリの指揮下で動くべし ジェネラルS』。これは辞令な……」
「はあ」
 と、コーイチローは絶句した。何を言っているんだ、この猫は。しかも、ノイズがわざとらしく入って、述べられていない部分があった。
「それで、最初の命令だ。図書館の世界文学全集第一三巻 ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』の上に置かれている銀色のケースを、十二時四三分ちょうどに確保し、コーイチローと同クラスの盾野スミレの机の中に、十二時五十五分に、気がつかれないように放り込め。行動は、昼休みの陽動の合図と共に」
 ニヤリと、ネムリが人間くさい顔で笑った。
「第三次世界大戦にようこそ」

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